マンザナー強制収容所 / Manzanar War Relocation Center
第二次世界大戦中、アメリカ合衆国において、日系アメリカ人たちが経験した悲劇的な出来事の一つに強制収容があります。その中でも最も大きな収容所の一つが、カリフォルニア州にあったマンザナー強制収容所です。アメリカ市民であった人々が、単に日本人の血を引いているという理由だけで、自由を奪われ、強制収容所へと送られたという事実は、アメリカの歴史における暗い一章として、そして人種差別という普遍的な問題に対する深刻な警鐘として、今なお私たちに語りかけています。
マンザナー強制収容所とは?
マンザナー強制収容所はアメリカ国内10か所の強制収容所のうちの1つで、1942年から1945年にかけて、デスバレー近くのカリフォルニア州の砂漠地帯に設けられた収容所です。1941年12月7日の真珠湾攻撃後、アメリカ国内で日系人に対する偏見と恐怖感が高まり、1942年2月19日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は大統領令9066号が発令された結果、西海岸に住む日系人約12万人が強制収容されることになりました。マンザナーは、その中でも最大規模の収容所で、最大時には10,046名が収容され、収容された総数は合計で11,070名。収容所では延べ135名が死亡し、そのうち15名が同所に埋葬され、残りは故郷の墓地に埋葬されました。
収容された人々
収容された人々は、アメリカ市民権を持つ者も含まれていました。彼らは、長年住み慣れた家や仕事、そして築き上げてきた資産や生活を突然奪われ、見知らぬ土地の収容所へと送られました。収容所内では、簡素なバラックが建てられ、共同で生活を送りました。食料は限られており、栄養不足に悩まされる人もいました。
収容所の生活
マンザナー収容所では、約10,000人の日系アメリカ人が生活しました。自由は厳しく制限され、監視下に置かれていました。住居は軍用のバラックが使用され、寒暖の差が激しいオーウェンズバレーの気候に適していない劣悪な環境でした。プライバシーもほとんどなく、家族単位で割り当てられたスペースは非常に狭かったです。食事も質素で、栄養面で十分ではありませんでした。
しかし、収容者たちは逆境の中でもコミュニティを形成し、生活を維持するための様々な活動を行いました。収容所には学校施設、高校の講堂(劇場としても使用)、職員住宅、鶏と豚の農場、教会、墓地、郵便局、病院、孤児院、2つの共同トイレ、野外劇場、その他アメリカのほとんどの都市にあるような必要な設備が設立され、農業や手工芸品の制作も行われました。スポーツや文化活動も盛んで、野球リーグが結成されるなど、少しでも日常生活を取り戻す努力が続けられました。
戦後と収容所の閉鎖
戦争終結後、マンザナー収容所は1945年11月21日午前11時に最後の収容者が去ると閉鎖されました。収容者たちは解放されましたが、多くは家や財産を失っており、ゼロからの再出発を余儀なくされました。彼らは偏見や差別と闘いながら、新しい生活を築くために努力しました。
1988年に、当時䛾ロナルド・レーガン大統領が日系アメリカ人補償法に署名し、米国政府䛿強制収容を受けた日系アメリカ人に対し、公式な謝罪と一人あたり2万ドル䛾賠償金䛾支払いを行いました。しかし、2万ドルの支払いは、強制収容所の人的・経済的損失を考えると、決して十分な償いとは言えないでしょう。
マンザナーの現在
現在、マンザナーは国立史跡(Manzanar National Historic Site)として保存されており、当時の生活や歴史を学ぶことができる博物館や展示施設が設置されています。訪問者はバラックのレプリカや収容者たちの個人的な物品、写真などを通じて、当時の生活を垣間見ることができます。また、追悼のためのモニュメントもあり、過去の悲劇を忘れないようにするための場となっています。
まとめ
マンザナー強制収容所は、アメリカの歴史における暗い章であり、決して忘れてはいけない出来事です。人権侵害の悲劇を繰り返さないために、私たちは過去を学び、理解し、次世代に伝えていく責任があります。
マンザナー強制収容所 / Manzanar War Relocation Center
Address : 5001 Highway 395. Independence, CA 93526
HP : https://www.nps.gov/manz/index.htm
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